第10回
玉川 寿 ~史上2人目のサイクルヒット~
奥原 万佐紀 ~甲子園でのホームラン~

玉川 寿・奥原 万佐紀

玉川 寿/奥原 万佐紀

野球の素晴らしさは、選手たちが一丸となって勝利を目指す姿にある。特にアマチュアの場合は、負けたら終わる一発勝負の中で、粘り強さと執念を持った戦いがスタンドの感動も呼ぶ。だが、チームスポーツが個人のパフォーマンスの積み重ねである以上、時にはたった一人の選手のプレーが強烈なインパクトを与え、歴史に深く刻まれることがある。完全試合、サイクルヒット、起死回生のホームラン……。『わが青春に悔いなし』の第10回は、そうした大活躍が野球人生を切り拓き、日石野球部のV6に貢献した男たちにスポットライトを当ててみよう。

1975年8月10日。第57回を迎えた夏の甲子園では、史上2人目という快記録が達成された。サイクルヒットである。土佐高2年生で三番センターだった玉川寿が、桂高と対戦した二回戦でマーク。「初めての甲子園で、最初はフワフワした感じだった」という第1打席は捕邪飛に倒れたものの、3回表の第2打席で右中間スタンドに2ラン本塁打を叩き込むと、5回に中越え三塁打、7回には左中間へ二塁打と打ち続け、8回に第5打席を迎える。ここでも一塁手のミットをかすめる安打を放ち、快記録は達成された。初めての大舞台にもかかわらず、高校野球史上に残る活躍をしてしまった玉川だが、実は高校で野球をやるつもりはなかったのだという。

玉川 寿・奥原 万佐紀

「野球に興味はなかったですね(笑)。チームスポーツよりも個人競技が好きで、陸上競技をやりたかったんです。だから、野球部のない高知学芸高校に進学するつもりでしたが、中学でやっていたソフトボール部の監督さんから熱心に野球を勧められまして、結局は土佐高校を受験し、野球部へ入部することになったんです。高校野球は練習も上下関係も厳しいという時代でしたが、土佐高校にはそうした雰囲気がなく、進学校ですから甲子園出場がノルマというプレッシャーもない。高知商と高知高の2強を倒すのを目標に、のびのびとプレーしていたという感じですね。2年生の夏は予選の一回戦でいきなり高知商に当たってしまったんですが、これに9-7で勝つと、準々決勝では春の甲子園で優勝した高知高も6-0で破ってしまった。何か夢中でやっている間に甲子園に出てしまったという感じでしたね。サイクルヒットを打った試合も、桂高の投手が私の好きなタイプのアンダースローだった。フワフワ感から解放されると、イメージ通りのバッティングができました。ただ、サイクルヒットについては達成しても気がつかなかった。あまり達成されたことのない記録でしたから。実際、試合後のインタビューでもホームランに関しては聞かれましたが、サイクルヒットという言葉は最後まで出てきませんでしたからね(笑)」

玉川 寿・奥原 万佐紀

その4年後、1979年の第61回大会でも、同じ2年生のミラクル・ボーイが誕生する。東東京予選を勝ち抜いた城西高(現・城西大城西高)は一回戦で敦賀高と対戦し、1点を争う好ゲームとなった。結果的には城西高が9回裏にサヨナラ勝ちを収めたのだが、この試合で三塁打を放ち、2打点を挙げたのが二番センターの奥原万佐紀だった。続く二回戦では、4安打5打点の大活躍。しかも、「野球人生で初めてだった」というホームランまでかっ飛ばした。今夏の甲子園では本塁打の新記録が樹立されたが、この年は27本だった。そんな頼もしい2年生の活躍が導火線となり、城西高は快進撃。優勝した箕島高に準々決勝で敗れたものの、ベスト8進出という好成績を収めた。そして、勝負強いバッティングが認められた奥原は、大会後にハワイへ遠征した高校日本選抜の一員に選ばれたのだ。

玉川 寿・奥原 万佐紀

「2年夏の甲子園は、今でも夢のような時間だったという気がします。小学生の頃、団地の仲間たちと少年野球を始め、中学まで一緒にプレーした。なかなか強いチームだったのですが、最初に教えられたのは『野球には運もつきものだ』ということ。でも、それは黙っていても近づいてくるものではない。普段から一所懸命にプレーしてはじめて、運も味方になってくれるということです。仲間には上尾高や帝京高といった強豪に進学した者もいました。私は城西高に進み、必死に練習していたらチャンスをもらい、それを生かしてレギュラーになり、甲子園という大舞台で結果が出てしまったという感じです(笑)。確かに努力もしていましたが、やはりツキもありました。運も味方してくれたと感じています。高校日本選抜に選ばれた時も驚きました。優勝した箕島高のバッテリー、浪商高の牛島和彦さん(今季まで横浜監督)と香川伸行さん(元・福岡ダイエー)のバッテリーをはじめ、錚々たるメンバーの中にあって2年生で選ばれたのは、私を含めて2 人だけでしたから。今思えば、メンバーのほとんどがホームランを打っている選手だった。まだ高校生が甲子園でホームランを打つこと自体が凄いと言われていた時代ですから、私なんかまぐれの一発で選ばれたんじゃないかと思っていますね」

史上2人目のサイクルヒットと、野球人生で初めて打ったホームラン。印象深い活躍でヒーローとなった2人は、大学へ進学してもコツコツと実績を積み重ねていく。玉川は慶應義塾大で中心選手となり、専修大へ進んだ奥原は再び歴史に残る本塁打を放つ。2年生の秋季リーグ戦。優勝争いを演じる中で代打に起用されると、逆転サヨナラ2ランを叩き込み、見事にリーグ優勝に貢献したのだ。

「甲子園で放った一発で、大学でも野球を続けることができた。そして、神宮でのサヨナラ本塁打で日石への入社が決まった。たった2本のホームランで、今の私があると言っても過言ではありません。そう考えると、野球は私にとって人生そのものを切り拓いてくれたものということになりますね」と、奥原は笑顔で振り返る。一方の玉川も、「あのサイクルヒットの……」という代名詞をつけて注目され、一時はバッティング・フォームに悩んだこともあった。「高校までは上半身でタイミングを取る打ち方だったんですが、大学で木製バットになったら通用しないと考え、自分からフォームを変えてしまったんです。高校時代のまま打っていたら、どんな結果を残せていたんだろうと思うと、大学時代には少し後悔がありますね」と言うが、4年間でベストナインに3度輝くなど高い実績を残した。そして、玉川は1981年、奥原も1985年に日石へ入社する。

玉川が入社した当時、都市対抗優勝から遠ざかっていた日石は、本格的に野球部を再建しようとしていた。そこで玉川のような優秀な選手を次々と入社させ、チームの強化を図っていた。1982年には東京スポニチ大会で16年ぶりの優勝を飾るなど、結果もついてくるようになった。だが、肝心の都市対抗では勝てなかった。玉川も入社直後から三番ファーストに抜擢されて実績を積んだが、全国の舞台で勝利を経験したのは、三菱自動車川崎(現・三菱ふそう川崎)に補強された時だけだった。

玉川 寿・奥原 万佐紀

「当時も、選手個々の力はありましたし、チームとしても決して弱くはなかったと思います。ただ、予選を勝ち抜いて後楽園球場に出て行くと、独特の雰囲気に圧倒されてしまうという感じでした。もちろん、長く勝てなかったことで、一回戦の壁もあっと思います。そうした精神的な重圧を取り除こうと、積極的に関西のチームとオープン戦も組んだりしていました」

そうやって苦しみながら前進しようとしているチームに、奥原も加わった。

「私の同期は大学卒が6名で高校卒が3名。この人数だけでも、会社の力の入れ方がわかりますよね。私は4年秋のリーグ戦が終わると、すぐに入寮させていただきましたが、まず驚いたのは大学時代にスターと呼ばれた先輩たちが泥だらけになって練習していること。普段の自己管理もしっかりしていましたし、このチームは必ず強くなると感じました」

奥原が感じたように、1986年の日石はついに復活を果たす。磯部史雄・新監督に率いられたチームは、一回戦で松下電器を下すと、国鉄名古屋(現・JR東海)、阿部企業も振り切り、準決勝では大阪ガスに競り勝つなど、関西のチームを次々と倒した。そして、決勝では電電北陸に9-7で快勝。待ちに待った19 年ぶりの黒獅子旗を手中に収めた。玉川は五番レフトで活躍し、奥原も一塁ベースコーチとして貢献するなど、選手が一体となった優勝だった。そして、久しぶりの日本一は、多くのことを教えてくれたと玉川は語る。

玉川 寿・奥原 万佐紀

「日石には大卒は3年、高卒も5年で社業に就くという慣習がありました。しかし、ここ一番の勝負ではベテランの力も必要だということで、選手の在籍年数を延ばしていく取り組みも始めていた。私も6年目で28歳でしたし、主将の吉田敏道さんは29歳でした。そこに、さらに年上の補強選手が加わった。 37歳だった日産自動車の村上忠則さんや、32歳だった東芝の武智勇治さんです。都市対抗の優勝経験もあるベテランが入ってチームが落ち着きましたし、何よりも若い選手のお手本になった。村上さんは毎日のように居残り練習をされていたし、武智さんはナイトゲームの試合で打てないと、翌朝早くから必死に特打ちをしていた。そういう姿には私も感動しましたね。それと、実績のある選手は明るい。球場へ向かうバスの中でも音楽をかけたり、常にチームメイトに話しかけるなど、プレー以外の部分でも勝つコツのようなものを教えられたと感じています。都市対抗で優勝するには勢いも必要でしょう。でも、やはり日頃から積み重ねた努力がものをいう。それをあらためて実感しました」

翌1987年限りで、玉川と奥原は揃ってユニフォームを脱いだ。玉川はレギュラーとして7年間プレーしたが、奥原は僅か3年の現役生活。だが、悔いはないという。

玉川 寿・奥原 万佐紀

「まず、日石から声をかけられた時点で『オレでいいのか?』と思いましたし、凄いメンバーの中でプレーできたことは誇りに思っています。日石の良さは、私のようにレギュラーとして活躍できなかった選手も、決してクサっていないこと。チームが勝っても『オレには関係ないよ』なんて思っている選手がいないことです。そして、野球を終えたあとも仕事で活躍できるチャンスがある。先輩たちがそういう伝統を築いてくださったから、私もユニフォームを脱ぐ時には、『よ~し、今度は仕事で頑張ろう』と素直に思えました。もちろん、仕事だって野球以上に大変なことはありますけどね。でも、人生3本目のホームラン、仕事で打ってみたいですね(笑)」

ENEOS野球部のOBたちには、苦しかった時代も悩んだことも笑って話せる強さがある。そして、そんな伝統が新たな栄光につながっていく。最後に玉川と奥原は異口同音にこう言った。

玉川 寿・奥原 万佐紀

「甲子園という場所は、私にとって人生の原点。甲子園での活躍があったから今の自分がある。甲子園は私の人生を豊かにしてくれた」

そして今、この二人は同じ職場の上司と部下として息の合ったところを見せている。

第11回はこの人です。

☆第11回はこの人です。

ヒント:
日本の野球の歴史に残る"怪物"とともに戦った投手とライバルだった外野手。ともに神宮を沸かせ、日石ではチームメイトになって日本一を目指しました。

~第11回の中から一部紹介~

「あいつの本当の凄さは、私が一番よく知っているんじゃないかな」
「あいつにだけは負けられないと練習し、ホームランも打つことができた」
"怪物"と同じ時代を生きた青春は充実していた。若い選手たちにも、好きな野球を楽しんでほしい!!

掲載日は11/27(月) 予定。乞うご期待。

※ このコーナーの写真は本人から提供されたものを使用しております。

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