第25回 大久保 秀昭
~強打の捕手から指揮官へENEOS指揮官の野球人生~

大久保 秀昭

とっぷりと冬の夕陽が暮れた等々力のENEOS野球部練習場。新しいシーズンに向けて練習に励む選手たちに目をやりながら、大久保秀昭監督はチームの成熟ぶりに手応えを感じているようだった。「選手たちは、本当によく練習しています。そんな姿を毎日見ていると、黄金時代と言われた中で必死にやっていた自分たちの現役時代を思い出すこともあります」 そう語った大久保監督は、高校時代から野球界のど真ん中を堂々と歩んできた。しかし、慶應義塾大4年生の頃には、「これで野球は終わりにしようか」と考えたこともあるという。『わが青春に悔いなし』の2008年スタートは、日本一を目指す指揮官の青春時代にフォーカスしてみよう。

大久保 秀昭

神奈川県と言えば、横浜のような港湾都市や工業地帯、みなとみらいに代表されるスタイリッシュな街並みを連想させられるが、大久保監督が生まれ育ったのは愛甲郡清川村。神奈川県では唯一の"村"である。

「村と言っても随分と広くて、福岡ソフトバンクの多村仁選手も同じ清川村の出身なんですが、彼の実家は村の北部に位置する宮ヶ瀬湖のほうなんです。でも、私の実家は厚木に近い方ですから、少年野球も厚木のチームに入りました。3つ上の兄と2人兄弟で、幼稚園の頃には兄の練習に付いていってボール拾いをしていましたよ。子供の頃の自慢は、小学2年生の時にセカンドでレギュラーになったことかな。そのあと、4年生くらいから体格がよくなってきたので、キャッチャーをやらされるようになりました。小学5年生で厚木リトルに入り、そのまま厚木シニアに進んで、全国大会でベスト8になった時は選抜チームのキャプテンに選ばれてハワイに遠征しました。この時に指導していただいた石黒忠さんという監督さんが、左打ちに変えたことも含めて最初の恩師ですね」

大久保が厚木シニアで活躍していた頃、実兄の孝昭さんは、桐蔭学園で強打の捕手として甲子園に出場し、高校日本選抜にも入るなど豊かな素質を開花させていた。そのあとを追うように、大久保も孝昭さんと入れ替わりで桐蔭学園に入学する。同期には、慶大、日石野球部を通じてバッテリーを組むことになる小桧山雅仁投手をはじめ、中学時代に全国の舞台で活躍した選手が集まってきた。大久保も、2人目の恩師と言える土屋恵三郎監督に捕手として鍛えられたが、強豪ひしめく神奈川県代表として甲子園の舞台に立つことはできなかった。

大久保 秀昭

「当時の高校野球にはやんちゃな選手がたくさんいましたが、私の兄もそのひとりだったようですね(笑)。私が入学した時、上級生から『あの大久保の弟』という視線を嫌というほど浴びせられましたから。でも、土屋監督は、そういった中でも私たちが野球に集中できる環境を作ってくれました。それだけのことをやっていましたから、3年生の夏に甲子園に出られなかったのは悔しかったです。今でも、高校3年生だけはやり直したいと思う時がありますし、本当に "わが青春"には悔いが残っています(笑)」

大きな悔しさの中で高校野球を終えた大久保は、大学進学を考えるようになる。同期では小桧山が慶應、のちにたくぎん、シダックスでも活躍した左腕の萩原康投手が法政への推薦入学を決めており、大久保は明治への推薦入学が有力と言われた。しかし、3人目の恩師となる慶大の前田祐吉監督(当時)から「小桧山-大久保のバッテリーに揃って来てもらいたい」と強く誘われたことで、目標の進学先を慶應に変えて猛勉強にも取り組んだ。結果、推薦入学の条件を満たす成績を収め、大久保は"慶應ボーイ"になる。

大久保 秀昭

「大学では、それまでの野球経験で得た考え方がひっくり返るくらいのインパクトを受けましたね。いわゆる慶應の"エンジョイ・ベースボール"というものですが、それは同好会のように楽しんでプレーするのではなく、野球をエンジョイするために様々なことを考えていくという意味ですから。自己管理も徹底されている大人の集団でしたが、思えば自己管理の中の自由は最大の規律です。チームメイトとともに切磋琢磨しながら、自分で自分を成長させなければならないという難しさを経験しました。正直言って、下級生の頃は自分に甘かったと思いますし、3年生の時も遊んでしまったかな(笑)。でも、 4年生になってキャプテンに指名され、しっかりやらなければと思うようになりました」

四番キャッチャー、キャプテンで大久保が引っ張った慶大は、春季リーグ戦で見事に8シーズンぶりの優勝を飾る。当時の野球雑誌には、小桧山とともに大久保もドラフト候補として取り上げられた。だが、当の大久保はやや違った思いを抱いていたという。

大久保 秀昭

「春のリーグ戦で優勝した時、自分の中に達成感のようなものが沸いてきて、『本気で野球に取り組むのは大学まででいいかな』という心境になったんです。4年生になる2月には、すでに日石野球部から声をかけられていましたが、前田監督には『野球をやめて一般就職しようかと思います』なんて相談したこともありましたね。だから、いくらメディアが騒いでもプロ野球という世界は考えられなかった。自分はそれほどの選手ではないと思っていました」

だが、そうした大久保の思いは、いくつかの出来事によって変化していく。ひとつは、高校時代からのチームメイトである小桧山が、バルセロナ五輪への出場を目指す日本代表候補に選出されたこと。身近に世界の舞台で戦おうとする存在ができたことで、大久保も世界の野球に対する関心を深めた。そんな折、8月にアメリカで開催される第2回アマチュア野球世界オールスター戦の東軍メンバーに、大久保自身が選出されたのだ。ドジャースタジアムでプレーすると、もっと野球を突き詰めてみたいという意欲が沸いてきた。そして、貴重な体験を経て臨んだ秋季リーグ戦でも優勝。もう大久保の心の中に、「野球は大学まで……」という気持ちは微塵もなくなっていた。

1992年に日石野球部の一員に。それなりの自信を抱いて飛び込んだ社会人野球の世界だったが、前年に日本選手権とアマチュア王座決定戦を制したチームの戦力は充実しており、ゴールデン・ルーキーといえども、すぐにレギュラーの座を手にできたわけではない。

大久保 秀昭

「当時の日石野球部は、都市対抗優勝という明確な目標に向かって右肩上がりで突き進んでいた頃でした。学生時代にどんな実績のある選手だって、練習から結果を残していなければ試合に使ってもらえない。特にキャッチャーは、高柳靖法さんが実績も信頼もありましたから、3月の東京スポニチ大会でも私の出番はほとんどなくて、『ブルペンキャッチャーをやるために社会人で続けたわけじゃないよ』って、悪態をついていたと思います(笑)。でも、5月の九州大会でチャンスが来たんです。確か日本代表のキューバ遠征でうちの候補選手が抜け、私も指名打者で出場機会を与えられました。その時にガンガン打ってアピールし、都市対抗予選でも結果を残したことで、東京ドームでもスタメン出場させていただきました。チームがベスト4になり、その中で私も小桧山とともに若獅子賞をいただいた。そうやって、少しずつレギュラーに近づいていったという感じです。社会人は高校や大学と違って、先輩が自動的に卒業していくことはない。ただ待っていても、レギュラーの座をつかむことはできないんです。それに、自分の力でポジションを勝ち取った選手でないと、その先もレギュラーを張っていくことは難しい。そういう部分には、プロと同じ厳しさがあります。私の場合も、そういう厳しさを経験したことで、自分の中に本当の自信が芽生えていったのだと思います」

2年目の1993年から、大久保は社会人球界を代表する捕手として輝かしい実績を残していった。1993、1995年は都市対抗で優勝し、捕手として社会人ベストナインを3度受賞(1992年は指名打者で受賞)。さらに、日本代表としても1996年のアトランタ五輪での銀メダルをはじめ、多くの国際大会で活躍した。

大久保 秀昭

「もともと好奇心は旺盛なので、国際大会で色々な国を訪ねたのは楽しかったですね。杉浦正則さん(現・日本生命監督)のように、一発勝負の魅力にハマっていくのも理解できましたし、当時の山本英一郎・日本野球連盟会長から『アトランタで金メダルを獲得するためにも、プロ入りせずに社会人でやってほしい』と言われた時も、『喜んで』という気持ちでした。ところが、都市対抗で2回優勝し、アトランタ五輪も終わると、『この先の自分は何を目標にプレーしたらいいんだろう』という贅沢な悩みが出てきてしまったんです。そこで、27歳になっていましたが、まだ自分を評価してくれる球団があればという思いで近鉄バファローズに入団させていただきました」

大久保 秀昭

プロの世界で5年間プレーすると、現役引退後は球団職員として裏方の仕事も経験。2004年には横浜ベイスターズのファーム・湘南シーレックスで打撃コーチを務める。そして、2006年に自分を育ててくれたENEOS野球部から監督就任を要請され、社会人球界に帰ってきたのである。

「大学時代に一度は離れようかと考えた野球ですが、今の私の人生は野球なしでは考えられません。どんな形でも、とことん野球に関わっていこうと思っています。また、そうした私の歩みの中では、3人の恩師をはじめとして、常に人との出会いがありました。そういう人たちを大切にしていきたいですし、ENEOS野球部の若い選手たちにも、周りの人や出会いに恵まれた野球人生を歩んでもらいたいと思います。そのためには、日々の練習で自分自身を磨かなければなりません。普段から私は、『プロを目指せ』と言っていますが、それはプロの世界に入るだけではなく、子供たちが憧れるような選手になることです。だから、技術面では徹底したプロフェッショナリズムを持ち、ひとりの社会人としては人に好かれる人間性、いい意味でのアマチュアリズムを忘れないでもらいたい。そういう選手が競い合うチームになれば、黒獅子旗は必ず手にできると信じています」

大久保 秀昭

額に汗して自分自身を磨く選手たちを見ながら、最後に大久保監督はこう言った。

「彼らと一緒に、都市対抗V10(現在は8回優勝)まではいきたいですね」

その視線は、野球と選手に向けた愛情を湛えていた。

第26回はこの人です。

☆第26回はこの人です。

ヒント:

次回からは、歴代マネージャーが語る"とっておきの野球部秘話"をお届けします。まずは、大学時代にスラッガーとして活躍し、社会人では縁の下の力持ちに転じた名マネージャーが、1993年の都市対抗優勝に向かうチームの成熟ぶりをつぶさに振り返ってくれます。もちろん、甲子園や神宮の舞台で活躍した自らの青春時代のエピソードも、今だから明かしてくれます。

~第26回の中から一部紹介~

都市対抗V7のチームというのは、あと一歩で負けて、負けて、ようやく日本選手権の頂点に立ち、都市対抗でも負ける悔しさの中から絶対的な力をつけました。当時は監督、コーチはもちろん、選手たちも"日本一"という目標に向かって、目の前の試合の設計図を書けるような集団でしたね。だから、劣勢に立たされていても跳ね返すことができる。それにしても、林裕幸監督をはじめ、首脳陣には個性的な方が集まっていましたね(笑)……。

掲載日は 2/25(月)予定。乞うご期待。

※ このコーナーの写真は本人から提供されたものを使用しております。

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